吉原を歩く――吉原大門

PICT5822.JPG吉原への入り口

吉原大門

 浄閑寺から土手通りを歩いて20分弱。吉原遊郭の入り口として、その名をこんにちにとどめているのが「吉原大門」である。交差点の標識に大きく掲げられている。

 ガソリンスタンドの右側の道を入っていくと、興隆を極めた吉原があった地域である。この交差点辺りで見るべきポイントが2つある。

吉原の名残

見返り柳

DSCN0506.JPG鮮やかな色の献花が霊を慰める ガソリンスタンドの角にひっそりとたたずむ石碑がある。「見返り柳」と刻まれている。

 かつて京都の島原遊郭の門口に柳があったことから、それにならって吉原でも柳を植えていた。その柳の辺りで、享楽を堪能した客が去りがたい思いを抱いて遊郭を振り返ったのが「見返り柳」の由来である。

 ただ、柳があったのは山谷堀脇の上手だった。道路整備や区画整理といった都市の変貌に伴ってここに移された。石碑の後ろに柳があるけれど、もちろん当時の柳ではない。震災で焼けたりして植え替えられ、今の柳は6代目だという。柳に日本人がしっとりした情感を抱くのは、昔から変わっていないようだ。

 石碑の脇には台東区教育委員会の説明パネルが設置されている。遊郭関連の説明をする教育委員会に粋を感じた。と同時に、遊郭があったことを地域の歴史として受け止める姿勢が心地よかった。

S字の下り坂

DSCN0508.JPG緩やかなS字を描く道路 「吉原大門」の標識のある交差点で、ガソリンスタンドの右側の道に入る。この道はなだらかなS字を描いている。吉原時代そのままの道なりだという。

 S字になっているのは目隠しのためである。遊郭への出入りが吉原大門から丸見えになるのはさすがに憚られたということだろうか。S字にしてしまえば、通りが丸見えになることはなく、客は安心して遊郭を歩くことができたのかもしれない。

 写真をご覧いただけると分かるように、今の吉原はマンションが建っていたり、マンションの下には交番があったりして、遊郭然としたたたずまいはかなり薄れてきている。

 とはいえ、この道路を入っていくと、ソープランドの看板が目立つ。吉原という地名はなくなったが、遊郭としての性質はこの土地に受け継がれているのである。


感想

 何の変哲もない道路だから、「吉原大門」という標識がないと素通りしてしまうだろう。それくらい吉原の面影はない。

 「見返り柳」は本来あった場所から「吉原大門」に移されているから、これも本来の吉原の姿とは異なる。悪く言えば歴史に手を加えてしまったということになる。もちろん、そこまでしてでも歴史の断片を残そうとしたというふうに好意的に見ることもできる。

 私が訪ねた日、私と同じように「吉原大門」の標識にカメラを向け、「見返り柳」の石碑に見入っている人たちがいた。その人は私より先にS字の道路を入っていったが、どんなことを思っただろうか。

吉原遊郭の歴史

 吉原遊郭は1617年に今の東京・日本橋の人形町駅の周辺につくられた。1657年に大火で燃えてしまい、それに伴って今の地に移った。場所は移ったが「吉原」の名前は引き継がれた。このため、最初にあった場所を「旧吉原」、移った場所を「新吉原」と呼んで区別した。このサイトで取り上げているのはすべて「新吉原」である。

 吉原遊郭は300メートル×400メートルの広大さで、そこに3000人もの遊女がいたと言われる。遊女や遊郭を相手にする商売も吉原遊郭周辺に広がっていたようで、吉原遊郭を中心とした巨大な市場ができていた。

 1958(昭和33)年に売春防止法が施行されたため、公の売春街である赤線としての吉原遊郭は廃止に追い込まれた。なお、「吉原」の地名は1966年に消え、現在の「千束」になった。

吉原大門の役目と背景

 吉原遊郭の出入り口は吉原大門と呼ばれる1カ所だけだった。その理由は遊女が逃げるのを防ぐためである。

 当時の遊女は家族の借金を背負うなど、体を担保にされた人身売買だったため、好き好んで遊女をしていたわけではない。現在のソープ嬢との大きな違いがここにある。

衣紋坂

 S字の坂をこう呼んだ。吉原遊郭で享楽を堪能した客がこの坂道で衣紋を整えたことからこう呼ばれたそうだ。