吉原を歩く――浄閑寺

PICT5811.JPG浄閑寺

荷風の詩碑と遊女供養の浄閑寺

 吉原遊郭の遊女を供養するお寺がある。浄閑寺である。「投込寺」という胸を突かれる名前のほうが有名かもしれない。

 地下鉄日比谷線三ノ輪駅の北口に出て、ちょうど駅の裏側辺りだ。歩いて1分くらいで着く。

「投込寺」として有名

新吉原総霊塔

PICT5815.JPG鮮やかな色の献花が霊を慰める 吉原遊郭の遊女が亡くなると、亡骸が浄閑寺に持ち込まれた。吉原から1~2キロと一番近い寺だからである。

 そうした遊女の霊を慰めるため、新吉原総霊塔が1793年に建立された。現在の塔は1929年に改修されたものである。塔の一角には「生まれては苦界し、死しては洗閑寺」という有名な句が刻まれている。

 1855(安政2)年に大震災があった時には吉原遊郭の大勢の遊女が投げ込み同然に葬られたことから、「投込寺」とも呼ばれるようになった。

 浄閑寺に埋葬された遊女は2万人を超え、その平均年齢は22歳弱だったという。どの女性も粗末なかっこうでムシロに巻かれていたという。



永井荷風の詩碑

PICT5816.JPG 新吉原総霊塔の真正面にあるのが、永井荷風の詩碑である。永井荷風は遊女の哀しく短い人生に何か感じるものがあったのか、小説の着想を得ようとしたのか、ここをよく訪れたという。

 永井荷風は1879年生まれで1959年に亡くなっている。よく足を運んだころには吉原遊郭自体がすでに消えていた。

 詩碑は関東大震災を嘆息した文章で、『偏奇館吟草』の「震災」が出典である。


感想

 お寺なので、もちろん明るい場所ではない。「空気がよどんでいる」と感じる人もいる。人の死を悼み、供養する場所だから、この世とあの世が交わっているのかもしれない。

 私が訪ねたのは寒い日だった。にもかかわらず、私がいた10分くらいの間に何人かやってきて手を合わせていた。特に女性が多かったように思う。遊女の苦しみを同じ女性だからこそ感じることができるのかもしれない。

 それにしても、埋葬された遊女の平均年齢が22歳弱というのは言葉を失う。人生をあきらめたのだろうか。こんなものだと開き直ったのだろうか。最後までもがき苦しんだのだろうか。

 浄閑寺を出て浅草方面に歩いていくと、同じ年ごろの女性がいやでも目に入ってくる。何だかまぶしく見えるのは気のせいか。

 私は「22歳、22歳」とつぶやく。

起点は三ノ輪駅

 吉原遊郭にまつわる場所を歩く場合、便利なのは日比谷線三ノ輪駅である。ここを起点にすると、浄閑寺はすぐ近くにあるし、そのあと吉原大門に歩いていける。

 駅の北口に出ると目の前に大きな交差点が広がるので、どう行けばいいか迷ってしまいそうになる。そこで、
(1)浄閑寺……駅の裏側にあるので、右側の歩道を歩く。ぐるりと裏側に回る感じで歩く
(2)吉原遊郭に行くには、駅を背中にして左側の歩道をまっすぐまっすぐ進む
 の2点を押さえておきたい。

永井荷風

 永井荷風の経歴を見ると、なかなか行動派というかダイナミックというか自分勝手というか、独特の世界を持っている様子がうかがえる。例えば、1912年に結婚して翌1913年に離婚し、別の女性と1914年に再婚して翌1915年に離婚している。職業も、落語家に弟子入り、ワシントン日本公使館勤務、正金銀行ニューヨーク支店勤務、慶応大教授就任とめまぐるしい。

 そんな中で、「あめりか物語」や「ふらんす物語」、「つゆのあとさき」、「墨東綺譚」「断腸亭日乗」などを発表した。耽美派とされ、「遊び人」とも見られたが、1952年には文化勲章を受章している。

教育委員会の掲示板

DSCN0513.JPG 吉原遊郭ゆかりの地に荒川区教育委員会と台東区教育委員会の掲示板が立っているので参考になる。吉原遊郭を歴史の1つとして正しく位置づけようという姿勢が垣間見える。教育者として誠実な態度である。教育の観点からも、吉原遊郭の史実を克明に後世に伝えていくべきである。