吉原を歩く――吉原弁財天

DSCN0514.JPG吉原弁財天

吉原弁財天

 吉原神社から道なりに歩いて左折すると、すぐに吉原弁財天に着く。道路の左側だ。鎮魂の場らしい空気が流れている。

 若い男性や高齢の女性らが入っていく。私も入ってみよう。

遊女の慰霊

関東大震災で弁天池に飛び込む

DSCN0512.JPG吉原観音像 台東区教育委員会によると、かつてこの辺りは湿地で、いくつもの池が点在していたという。その1つが弁天池だった。吉原遊郭ができたあとに弁天池のそばに弁天祠がつくられ、遊郭楼主の信仰を集めた。

 1923(大正12)年の関東大震災で吉原遊郭一帯が火に包まれ、逃げ遅れた遊女490人が弁天池に飛び込み溺死した。この遊女の供養にと1926(大正15)年、吉原観音像が建立された。

 関東大震災で吉原遊郭は炎に包まれた。木造住宅が密集していたから火の回りが早く、手が着けられなかったのだろう。

 そんな状況に加えて遊女が逃げ遅れた理由として、当時の吉原遊郭は遊女が逃げられないよう周囲を高い塀で囲っていたうえ、出入りする門に外側からカギがかけられたためと言われている。

 それから歳月が流れた。今も献花が絶えない。吉原観音像もきれいに磨かれている。弔う人たちがきれいに掃除をしている様子がうかがえる。あの世の人たちにこの気持ちは届いているだろうか。

感想

 静かな場所である。中は狭いから数分もあれば見て回ることができる。そんなところに祈りを捧げにやってくる人が少なくない。せめて後世の私たちが供養しないと浮かばれないということだろう。

 命を落とした現場が阿鼻叫喚だった様子については右側の「関東大震災と吉原遊郭」欄に書いたので、併せて読んでいただきたい。この世の地獄が展開したことは想像に難くない。

 観音像は高い位置にあるので見にくい。写真を撮る場合は望遠レンズのついたカメラが必要である。

遊女が飛び込んだ池

DSCN0518.JPG 関東大震災で遊女が飛び込んだ池の一部が隣のNTTの敷地内に残っている。400人以上が飛び込んだのだからずいぶん大きな池だったわけである。

 弁財天は七福神の中の紅一点、女性の神様だ。インドの出身で、「サラスヴァティ」という名前である。「サラス」は水の意味で、要するに水の女神と言える。池で溺死した遊女たちを弔う神様として「水の女神」が充てられたということである。

関東大震災と吉原遊郭

 1923年9月1日午前11時58分に発生した。死者・行方不明者は約10万5000人、住家の全壊は10万9000余、半壊が10万2000余、焼失は21万2000余(全壊や半壊後の焼失を含む)という前代未聞の災害になった。。

 昼食の準備で火を使う時間帯だったせいか地震直後から各地で火の手が上がった。当時は木造家屋であり、火の回りは早い。下町の住宅密集地はあっという間に燃え広がった。こうしたことが災害を大きくした。

 吉原遊郭の遊女たちは燃えさかる炎から逃れるために池に飛び込んだようだが、足が立たないほどの深さがあり、しかも500人近くが相次いで後から後から飛び込んできた。先に池に入った者は足が立たないのでパニックになっているのに、その上から人がどんどん降ってくるという状況だったわけである。阿鼻叫喚の中で水中に沈むしかなく、泳げない者は溺れるしかなかったようだ。